河合昂樹
兄への電話を切った僕は、体中にまとわりついた砂を払った。少なくとも兄の住んでいるところはまだ無事なようだった。強風に天幕が波打つ。吊り下げたランタンが弧を描き、影と光りが荒ぶるダンスを踊る。無意識のうちに指を口許に持っていくが、煙草はとうに切らしていた。
理が壊れたのは十年前だ。
どこからともなくあらわれた砂嵐が故郷を覆うのに時間はかからなかった。多くの人間が死んだ。街は砂に沈み、生き残った住人は安寧の地を求めて、旅立った。
しかし、いずれ、この星すべてがその黒い手にのみ込まれると言われている。
終末まであと五年と。
信心深い者は審判の時来たれりと叫んだ。
脈々と靴はきちんと履きなさい。
習わしが意味するところを僕は知らない。
砂漠の夜は冷たく、長い。薬指にはめた指輪にランタンの燈が反射する。僕は羊皮紙で編まれた古い聖典を開いた。この世界の成り立ちと終末が順を追って描かれ、砂嵐はまさしく予言された通りの出来事だった。かすれた文字に指を這わせ読み込んでいく。しかし、英雄はあらわれない。なすすべもなく終末の時へと至る。
僕は聖典を閉じた。ランタンの明かりを消すと、質感の伴った闇がテントを満たし、僕は一日の疲労と嵐の轟音とともに短い眠りに落ちた。
天幕を透けた太陽に僕は目を覚ました。風はやみ、ひと時の静寂が横たわる。顔をこすると乾いた肌に涙の跡があった。いつも同じ夢を見ている。
「歩みを止めないで。あなたならきっと大丈夫よ」
肌を守るためのローブを被り、テント内の道具をカバンに詰め込んだ。革靴を手に取り、逆さまに向け、底をパンっパンと叩き、夜の内にたまった砂を取り除く。右前足、左前足、右後ろ足、左後ろ足の順に靴を履いていき、足が痛くなるまで靴紐をきつく縛る。靴のかかとを踏んではならない。カバンを背負うと、その重量に体が傾き、あわてて踏ん張る。外に出ると空一面の青空と黒い砂漠が、果てもなく広がっていた。テントのペグを引き抜き、砂を払って折りたたむ。
そして、僕はまた足を踏み出す。行き先もわからない。振り向けば僕の足跡は砂にかき消されている。
滅びゆく世界に、抗うことに意味はあるのか。
結局、僕の行為はどこにもつながらず、世界は終わりを迎え、全ては無意味で無駄で苦痛でしかなかったと、思い知らされる時が来るかもしれない。
太陽は高く、黒い砂に、歩む僕の影が映る。熱波が吹き荒れ、地形はかわる。空気を吸うと喉が焼ける。僕はローブで顔を覆い、靴紐をしっかりと結んで、絶望的に広大な土地に再びまた足跡を刻んでいく。
二時間ばかり歩き続けた。
休憩のため砂上に布を引き、腰を下ろした。二日前に見つけた、枯れかけた泉で汲んだ水をひたひたと少しずつ飲んでいった。一滴も無駄にはしない。
「ねえねえ」
子供の声が背後から聞こえてきたが、僕はそれをただの幻聴だと聞き流した。よくあることの一つだと。
「ねえってば、こっちを見てよ。愚かな旅人さん」
僕は人に飢えていたのかもしれない。
僕は後ろを振り返った。黒髪で澄み切った青い目をした子供が、意地悪く微笑みながら僕を見つめていた。男の子か女の子かわからない。性別を超えた中性的な美しさが凛とはじけていた。感動すら覚えるほどの美しさだった。しかし、本能が告げていた。それは毒のある花と同じ、悪意に満ち満ちた美しさだった。
その子は僕の反応を見てくすくすと笑った。
「旅人さんは何も知らないんだね」
街に建てられた神の銅像には二本の足しかなかった。
そう、僕は何も知らなかった。
「知らないでしょ。昔の人間は足が二本だったんだよ」
その子は二本の足で立っていた。
僕の街は神の死した場所と言い伝えられている。
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