元岡謙二
扉が開き、何気なく座ろうとしたシートの上にその本はあった。
花をあしらったブックカバーのせいでタイトルは分からなかったが、気が付くと私は手慰みにページを閉じたり開いたりしていた。
誰のものとも知れない文庫本。
もちろん持ち帰るつもりなどなかったがトートバックに入っていて、こうしてリビングにまでついてきてしまった。
交番に届けるほどのものでもなし、果たしてどうしたものか。
ふと、ひらめいた。燃やしてみてはどうだろうか。
この思い付きは昨晩見たパニック映画の爆発に影響されたか、先週出かけたBBQのせいなのか、何にせよすこぶる冴えたアイデアに思えてくる。
禁煙して二年になるが自室からスムースにライターは見つかり、庭に向かう。
久しぶりの着火には思いのほか手間取ってしまった。こんなに重かっただろうか。よくこんな大変なことを毎日繰り返していたなと苦笑しつつ、ついに文庫本に火をつける。
まずは、背表紙からだ。角から三角形に火は広がり、適度に火が広がったところで本を振り消火する。背表紙のない文庫本というのはやけに乱暴なものに見えてくるものだ。
ページをパラパラとめくってみる。
ページが燃えて失われるということは、世界の断片が書き換わることと同義ではないか。
理路整然とした推理小説が不合理な物語に、不条理な物語が誤って筋の通った物語になり、行く末は未知のまま人知れず、結末への道は絶たれていく。
親指の軋みを感じながら私はライターの火をともした。
小高知子
ていうか、これね、いっつも思ってることなんだけど、物語って、やっぱすごい。
たぶんこれ、このお話、わたしが本をとじてるあいだにも進んでて、勝手にトンデモナイところにいってる気がする。わたしの手の届かない、わたしには絶対行かれない、どこか、遠く。
すごく遠くて、だけどすごく親密な、どこか。
ねぇお姉ちゃん、そう思わない?
玄関出てから猛ダッシュしたおかげで、今日は一本早い電車に乗ることができた。
次の電車はまじ超激混みなんだけど、この電車ならほぼ絶対座れるの。
空いてる席に腰かけて、スマホを鏡にして前髪なおして(だって走ると前髪ってすぐぐちゃぐちゃになるんだよ。前髪いっこで顔の印象超変わるからね、まじ前髪命)、
さ、あのお話の続き読もっかなって思ったんだけど、あれ、あそこに座ってる女の人、
ううん、女の人ってか、おかあさん。
この時間帯の電車に、子ども連れって珍しい。
だいたいがサラリーマンのおじさんか、わたしみたいにちょっと遠い学校に通う学生だもん。
あんなちっちゃい赤ちゃん連れて、大変じゃないのかな。
心なしかあのおかあさん、顔色わるいみたいに見えるし。
パラパラパラ…
月が出ている。藍の上にぽっかりと。紙で貼ったみたいにくっきりと。
空はずっと遠くにある。
眠りと死とはとても親しい。その状態において。あるいは世界との距離において。
あたしを含む世界から、うんと離れてこの子は眠る。
憂いをすべてここに残して、遠く安寧の中に沈んでいる。
眠ると重たくなるのは、たましいはまだここにあるとあたしに教えるためなのか。
うすくあいたくちびるが、唾液でうっとり濡れている。
膨らんだ頰がひかりを弾く。
「くつの かかとは ふまないこと」
子どものころから何度も聞かされたことばがふっと胸を突く。つめたい夜の舌で舐められたような気がする。
おそるおそるたしかめる。
大丈夫。
あたしの靴、かかとはきれいに立っている。
たしかめて、たしかめたじぶんを可笑しく思う。
もうないのに。
あたしの靴のかかとを踏む、かつて踏んだかもしれない、あたしの足のその一部、あれは、もうそこにないのだ。
あれと引きかえに、あたしはこの子を手に入れた。
いらないと思ったのだ。
あんなもの、なくても生きていかれる。そう思ったのだ。それはほとんど確信だった。
あんなものは、もういらない。
あたしの足の、裏に近い、暗くて湿ったところでひっそりと、卑屈な顔をして、およそ九十度、肉厚の、
あたしを支える、あんな部分はもういらない。
そう思えたあの日のあれを、あたしは今でも尊いものだと信じている。
だってあの日は、とても明るかった。
輝いてなんかいない、けっしてまぶしくない、降り注がない、ただよく見えるだけ。
そういうふうにして明るかった。
晴れ間から、ずっと遠くまでよく見える。それがあの日だった。
しんでるの。
訊いてみてもこたえない。
唾液でひかるくちびるから、息が漏れている。ため息にも似た、ささやくような息が。
パラパラパラ…
あっ。わたしったら、本広げてただけで全然読んでなかったじゃん。
ていうか、もう次降りなきゃだし。
乗り過ごしちゃったらせっかく早い方の電車に乗った意味がないもんね。
あーあ、一限世界史かあ。わたし、あの先生嫌いなんだよね。
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