古川友紀
「ねえ、ちょっと…」窓越しに母の声がする。
「ねえ、ちょっと…」母が私を呼ぶ声がする。
私は顧みない。母は私がここにいることに気付いているが、その声は私に向けられたものではないから。
背表紙が焼けても、かろうじでつながっている紙の束は、それでもまだ本としての体裁を保っていた。もともと一枚の大きな紙だったものが、印字され、折り畳まれ、それらが寄せ集められ、押し固められ、端を削がれてのり付けされる。本の造られる過程とは、なにかを施されているのか、弄ばれているのか。いずれにせよ、ただ黙ってその変化を受け入れつづけた先に、このかたちがある。
こんなことを考えるのも、死んだおやじが印刷工場を営んでいたからで、私は幼い頃、工場の印刷機が回るのを見るのが好きだった。
もう少し燃やしてみようか。反り返った表紙にライターの火を近づけると、火は波のように優雅に燃えうつった。私はしばらくそれを眺めていた。
こうして本に火を点けることも、製造過程から端を発して定められた変化の一つのような気がしてきた。まじない、のような。
「ねえ、ちょっと…」寝たきりの母の声はうわごとに転じている。
本は小さな呼吸を繰り返しながらゆっくりと燃えていく。
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