嵯峨実果子
本のページははらはらと焼けていく。束になっていた本がばらけて紙に、物語をなしていた明朝体の整列がほどけていく。パラパラめくってみただけなのでストーリーはよくわからないけれど、どうやらディストピアっぽいSFで、人類は二足歩行以外の歩き方をしているらしかった。偶然手に渡ってきたSF小説が最後不意に燃やされるというのも我ながらなかなか出来すぎている。この本の持ち主は電車に忘れてきた本が今頃燃やされていると微塵でも想像することができただろうか。物語の結末は知らないけれど、この本の行く末は何千部だか何万部だか刷られた同じ本の中でも1、2を争うドラマティックな結末を迎えたに違いない。読み終えたら本棚で日に焼けて埃をかぶっているか、ブックオフに売られるかが大半の本の行く末だろうから。
「ねえ、ちょっと…」私は印刷工場を継がなかった。父は何も言わなかったし、晩年は格安のネット印刷におされ経営は苦しかった。家の隣にある工事は印刷機もまだそのまま、冷えたインクの匂いがするずず黒い廃墟と化している。母はいろんなことに耐えてきた。「ねえ、ちょっと…」そう呼びかけるけれどその先の言葉がない。耐え抜いた挙句要求するということを忘れたのかも知れない。うちで刷られていたのは広告チラシとかちょっとした冊子の類い、寿命の短い印刷物が主だった。火曜豚肉特価!!100g 98円、サンふじ1個 88円 お一人様2個まで ! 父は物語をなさない言葉を刷り続け、家族はそれで暮らしていた。
母を介護施設に入れる手続きを進めている。そしたらこのインクの匂いが染み付いた家も売って、見てるだけで気が重くなる重量の印刷機やらを一切合財処分して、身軽なマンションに引っ越してやる。
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