堀井和也

 一筆箋にはその一文だけ記されていた。次いで私は三つ折りの薄紫色の紙を開いた。

 私は呼吸を忘れていたようにおもう。この時、妙に静かで時間の流れが遅く感じられた。母の好きだった薄紫色の紙には――頭の霧が晴れている間に手紙を書いた。あなたには迷惑のかけ通しで謝らなければならない。ずっと隠していることがあった。あなたが産まれるまえ、父とは別に想いを寄せている人がいた。想像を超える厳しい結婚生活と子供が出来ない重圧から逃げるようにその人と会っていた。その人との間に子を身籠った。堕ろすしかその時の自分には選択肢がなかった。父は全くなにも言わなかった。それからその人とは会っていない。怒鳴りつけられた方が救われた。父は優しすぎた。贖罪の仕方がいまもわからない。もう死期が近い。あなたに直接告げる勇気がいまも出ない。父も先立ち、この秘密を墓まで持っていくのは罪深いとおもい、その人から送られてきた最後の手紙の住所にこの秘密を託した。立派に育ってくれてありがとう――と、見覚えのある、すこし斜体気味の筆圧の頼りない文字で書かれていた。

 読み終わった途端、近くを通っている電車の音が耳に入った。時間が急激に速度を戻したように感じられ、私はようやく水面に顔を出したように、息を深くつく。この手紙の内容の真偽や、母の恋人だったという手紙の差出人や、晩年の母がこんな文量を書けるのかなど、思うところはないではないけれど、それとは別に、ある感慨が兆している。


ベランダに出る、多摩川沿いにある築20年鉄筋コンクリート造りの2DKマンション、6階建ての私の新居はその5階で、川の向こうにある、辺りの環境からは異様なほどの高層ビル群が視線の運動に上下のダイナミズムを生んで、眼下には野球のグラウンドが守備位置付近に少しの水溜まりを湛えながらいくつも隣り合い、あんなに降っていた雨は止み、北西を向いて厚い雲は去っていく、新幹線は減速しながら川を通過し、在来線は次の駅へと急行、鈍行交互に人を運んで、日のある内に晴れ間は出ないまでも、夜には星が見えるだろう。


 これまで私が出会った、人、物、出来事、それぞれの織りなす集積体が「私」という現象を発生させている。そして、未だ見ぬ世界にも道は続いていて、どういう変遷を辿るかは誰にもわからない。川の流れで例えるなら、私は現在、河口までその中程も来ていないだろう。私は父を、ましてや母を恨んでなどいない。この手紙が本当ならば、一人の人間が生きていく上で出くわさざるを得ない様々な出来事が母の身にも起きていたことが、むしろ嬉しかった。この前まで、あんなに不憫に思えていたのに。母が辿った道を、母という現象を垣間見たことは、これからの私になにを及ぼすだろう。


 今年は、秋に新しい花火大会がこの多摩川沿いで開催されるらしい。どうやら良いところを見つけたのかもしれない。


 グラウンドに溜まった水を、どこかで雨宿りしていたのだろう球児たちがスポンジやら雑巾を使って吸い取っている。なんだか途方もない。

『ミち』

mimaculの公開ワーク「連歌のように」一本の小説(なのだろうか)をメンバー全員で書く試み。タイトルは『ミち』 【ルール】 ・決めた順番で回していく。嵯峨→山羊→河合→立蔵→堀井→林→川瀬→下村→京野→高橋→たまな→小高→元岡→古川 ・人物が登場する場合、名前は登場順にイ、ロ、ハと付ける。 ・1回の更新が短くても構わない。 ・前の人が書いたものを引き継ぎつつ、文体や口調が変わってもよい。