川瀬 亜衣
その後も、ずっと電車からは降りられていない。
上り下り、今はどちらに走っているのかを考えるのもやめていた。
あぁあ、もうすっかり夜で、六郷土手は人だかりで蠢いている。
蛍光灯で眩しい車窓の遠くで音もなく花火が上がった。あぁあ。
念願の自宅花火は翌年に持ち越しが決まったなぁ。
すぐ足元からパチパチと音が聞こえた。
気泡が弾ける茶黒い色の液体が、枝分かれしながら床を這っていく。
慌てて両足を浮かせた。
前方座席からだらりとはみ出た、スーツ男の手にはコーラのボトル。
私を含め、この電車には寝ぼけた乗客しかいないらしい。
甘い匂いに混じって藤の香りが鼻をかすめた。
すると、ゴーーー。
真っ暗になった。
トンネルに入ったのだろうか?
車内灯が誤って消されてしまったんだろうか?
「母の恋人だった父」の、空洞の顔の中に落ちてしまったのかもしれない。
パチパチパチパチ… まだ聞こえる音だけが、微睡む私と車内を結びつけていた。
やがて、ひらひらひらと、薄紫色の便箋にかよわく引っかかっていた母の文字が、私の頭上から降ってきた。
私は真上(上も下もあるのかないのかも今は不確かだけど)を見上げようと、重い頭部を旋回させた。
0コメント