小高知子
このひと、いくつだろう。
あごを持ち上げるようにして煙を吐きだし、ぼんやり思う。
中途半端な水色の封筒は、コーヒーショップの小さなテーブルの上で思った以上に場所ふさぎだった。あとで修復するべく慎重にくちをあけられた封筒からは、同じ色の便箋がすこし顔をのぞかせてじっとあたしを見つめている。
あたしとおなじとしくらいかもしれない。たぶん。きっとそうだろう。
親子ほどとしの離れた夫婦。
その他のアイデンティティを奪うかのようにあたし達ふたりに貼りつけられたこのことばは、しかしだとすると、わりと正しいということになる。
お昼やすみのサラリーマンたちが午前中に溜めた鬱憤とともに吐き捨てる煙のなかに自分のそれを混ぜながら、依然ぼんやりとしたまま考える。
フェアでないのかもしれない。
このままあたしの手で隠滅してしまうのは、道理にもとるのかもしれない。
けれど、フェアである必要なんてどこにあるのだろう。
だってあたしは妻なのだ。
妻がフェアである必要は、断言できるけれど、ない。
手首を内にかえして時間を見る。昼やすみのうちに夕飯の買い物を済ませておかなければいけない。
今のあたしの懸念事項は、職場の共用冷蔵庫を占領してしまうことへの後ろめたさであり、終業間際に仕事を寄越す阿呆をどういなすかであり、支度が遅れた夕飯を待つ夫の機嫌をレンコンのはさみ揚げとビールとでとることができるかどうかなのだ。
ぬるくなったコーヒーを啜る。
カップの底に溜まった澱に、亡くなったひとのお誕生日を祝うという悪趣味少女趣味の片棒を、夫が担がないことを祈りながら。
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