河合昂樹
雨は火を消さない。
炎に包まれる本をぼんやりと眺める。
着慣れない礼服は箪笥の奥から引っ張り出した。香の匂いは数時間経っても消えていない。夜は深い。燃える本からたつ黒い煙と数年ぶりに吸うタバコの白い煙が混じりあって、私の喉を焼く。炎に炙られて、文字は踊り狂うが、炭化は避けられずに黒く塗りつぶされる。消え行く文字が、物語が、母の人生に重なっていく。
母の一生を思うと一抹の侘しさと胸の痛みを感じずにはいられない。家族経営の印刷屋は満足な従業員を雇えずに、末期の癌患者の延命治療のように、母の人生を栄養分にして瀕死の状態を無理やりに生きながらえた。父の死後、工場を畳んだのも母だった。友人づきあいもせず、休日もなく、趣味も化粧をする時間もなく、自分の人生を費やした見かえりは、工場の倒産と長年の疲労の結実である認知症とそれに伴う寝たきりであった。母としての自分を忘れ、子供である私を忘れ、過去をなきものとし、幼子にかえった母は、最後には言葉を紡げなくなった。まるで人生の前半部で身につけたものを後半部にすっかりと失っていくように。母は積み減らしながら生きてきた。残されたのは小さく脆い骨ばかりで、摘むと簡単に崩れた。なるべく身軽にあの世へ飛び立とうとしたみたいに。
母は施設に入居して一週間も経たずに死んだ。私が新居で羽根をのばしている最中に、母は死んだ。知らせを聞いて思い出したのは忙しい合間に作ってくれたインク混じりのおにぎりだった。
本は燃やされ尽くし炭となった。物語は空へとかえり、拠り所をなくし火は消えた。雨はやまない。冷たい雨が。
母が残したものがもう一つあるとするならば、それは親不孝な私であった。
遺書が届いたのは母の死から5日後のことだった。
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